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エジプトは、世界で最も豊かで最も古い文明のうちの一つが発祥した地であり、その歴史は紀元前数千年にまでさかのぼります。何世紀にもわたって、この文明は世界全体の啓発の源として存在しました。その素晴らしい遺跡は今でも、エジプト学者や歴史学者ばかりでなく、世界中から見学に訪れる観光客を驚かせています。
エジプトは常に、継続的で革新的な人間、社会、文化の相互作用の中心でした。この相互作用は、エジプトの歴史、社会、文化を作るのに重要な貢献をしました。事実、現代のエジプト社会と文化の最も顕著な特長の一つは、その歴史的体験の複合性と文化的要素の多様性です。
古代エジプト
古代エジプトの歴史は、紀元前3100年から紀元前322年にまで及んでいます。この期間は、30の王朝(30の王家)に分けられ、これはさらに4つの主なグループ、つまり古代王朝、中期王朝、新王朝、末期王朝に分けられます。この長い歴史は、長期にわたる繁栄と偉大な業績のあと、短期間の外国からの支配も受けた停滞と衰退の時期が続くというサイクルを繰り返しました。
古代王朝(紀元前3100年から紀元前2181年、第1から第6王朝)
エジプト王朝の歴史の始まりは、前王朝時代のエジプトのニつの王国、すなわち、国王が赤の王冠を戴く北方王国と国王が白の王冠を頂く南方王国の統一によって歴史に印されています。メネス王によるこの統一は、人類史上最も古い国をこの世に登場させ、エジプトの王朝の歴史を開始するものでした。
![]() ギザのピラミッド |
![]() スフィンクス |
古代王朝の第3王朝の間(紀元前27世紀)に、エジプトの最初のピラミッドが建造されました。サッカラの階段状ピラミッドが、ゾセル王のために建築長官イムホテップによって作られました。この建造は、建造物全体を石で作った世界で初めての試みと考えられています
第4王朝(紀元前2613年から紀元前2494年)はピラミッド時代と呼ばれ、領土の拡張とピラミッドの建造がその特色となっています。スネフェル王は、赤の傾いたピラミッドをダシュールに、マイダムのピラミッドをサッカラの南部に作り、遠くリビアやヌビアにまで遠征軍を送りました。王の統治中は、ナイル川に沿って交易が栄えました。スネフェル王の子孫であるクフ王(ケオプス)、カフル王(ケプレン)、メンカウレ王(ミセリヌス)は、ギザのピラミッドとスフィンクスを作りました。クフ王の統治下で、エジプトは歴史が始まって以来、組織立ったシステムに従って統治された最初の国となりました。また、第4王朝は近東との交易関係を拡大し、ヌビアで銅の採掘と精製を行いました。
第6王朝(紀元前2330年から紀元前2170年)の間に、統一されていた国土はファラオの権力に挑む小さな地方国家に分裂し、その結果、第6王朝が崩壊して古代王朝が終わるまで、混沌と衰退の時期が続きました。
中期王朝(紀元前2133年から紀元前1786年、第11王朝から第12王朝まで)
中期王朝の創始者は、モンテウホテップ・ネブヘテプラ王です。王は約50年にわたってエジプト全土を統治し、政治的および社会的な秩序を立て直し、経済と美術の発展を復興させました。交易が再開され、再び鉱山の発掘が始まりました。また、リビア、ヌビア、シナイ半島のベドウィンに対する領土拡大の動きが再び開始されました。第12王朝に誕生した偉大な王のうちの1人であるセヌセルト1世は第2のカタラクトに強力な砦を築き、セムナ(第3のカタラクト)までの全行程に沿って、同じような一連の砦の建築を始めたのもこの王だと思われます。
第12王朝も終りに近づくと、地方国家の統治者は権力をめぐる争いを始め、エジプトは不安定と変動の時代へと入っていきました。その一方で、いくつかのアジア部族がエジプトに侵入しました。これらの部族は一般にはヒクゾスと呼ばれ、次第に力をつけてエジプトの統治者の階層をのぼりつめていき、エジプト北部を統治する独自の王朝を作り上げ、アバリス(デルタ東部)に首都を建設しました。
ヒクゾスの統治は、エジプト南部(テーベ)に第17王朝が起こったことで終わりを告げました。カモセ王はアバリスを包囲攻撃し、その後を継いだアモス王はヒクゾスをエジプトから追い出してパレスチナまで追っていき、完全に壊滅させました。アモス王はエジプトに戻り、第18王朝、すなわち新王朝を建設しました。
新王朝(紀元前1567年から紀元前1085年、第18王朝から第20王朝まで)

第18王朝の間ヌビアには平静が続き、その金、象牙、宝石、黒檀などの富がエジプトに流れ込んできました。ファラオの軍隊は近東、シリア、パレスチナを征服し、これらの属国からの労働者が自国の知識、技能、文化をエジプトの土壌に根づかせましいた。テーベのカルナック神殿は、帝国の拡大とともに大きくなりました。
アメノフィス2世とタスモシス4世の統治下で、帝国の拡大が続きました。アメノフィス3世の統治下に、王国はルクソール神殿を始めとするファラオを祭る最大の神殿の多くを建築できるだけの安定を得ました。
アメノフィス3世の息子であるアメノフィス4世はアマン神の神官たちと争い、アテン神に敬意を表して名前をアクヘナテンと変えました。妻のネフェルティティとともに、アクヘナテン王はアテン神の崇拝という目的のためだけにテル・エル・アマルナに新しい首都を建設しました。これは、多くの人により、世界で最初の組織立った一神教の宗教と信じられています。後に、王の後継者たちはその信仰を異教だとして非難しました。
アクヘナテン王の後を継いだツタンカーメン王の統治は、9年でした。ツタンカーメン王は、1922年にその墓が発見されたときに、すばらしい財宝が見つかったことで最もよく知られています。
第19王朝のラムセス王も、テーベのラメゼウムやアブ・シンベル神殿などの遺跡を建造しました。その息子、メルネプタ王の統治の大部分は、リビアと地中海地方からの侵入者を追い戻すのに費やされました。メルネプタ王は、聖書の出エジプト記にその記述があるファラオだと信じられています。
第3中間期(紀元前1069年から紀元前715年、第21王朝から第24王朝まで)は、外国からの侵入の波が西、東、および南から続き、次第に王国の力を侵食していったことが特長となっています。テーベの西にある王家の墓が荒らされていることがわかったのは、この第21王朝(アムンの神官)の時代です。ファラオはギリシャの傭兵に依存して法の施行を行ったり、外国からの侵略(アッシリアおよびペルシャ)に対抗していました。
末期王朝(紀元前716年から紀元前332年、第25王朝から第30王朝まで)
ヌビアから起ったクシテ王朝(第25王朝)がエジプトを支配していました。この王朝の王はすべて完全にエジプト人化し、アムン神を信仰し、象形文字を用い、エジプト様式の遺跡を建造しました。
ペルシャが最初にエジプトに侵入したのは、紀元前525年のことです。征服者となったペルシャ人は第27王朝(紀元前525年から紀元前404年)を創設し、エジプトに苛酷な統治を行いました。カンビシス帝およびダリウス帝の統治のもとに、ペルシャ人はナイル川と紅海を結ぶ運河を完成しました。これは、第12王朝(セヌセルト1世)の時代に最初に手がけられ、第26王朝のネコ2世によって工事が再開されたものです。
紀元前322年に、アレキサンダー大王がエジプトを支配していたペルシャを打ち負かし、エジプトの国土の所有を宣言しました。
宗教
エジプトの宗教に関する知識は、エジプト文明の真髄をつかみたい人すべてに不可欠なものです。宗教は、エジプト文化のあらゆる局面を深く支配していました。エジプトの神殿には、様々な性格と姿をした多くの神々が祭られています。この多様性は、何世紀にもわたって宗教的信仰が絶えず成長し、古い考えをまったく捨てることなく新しい考えを導入した結果として生まれたものです(アクヘナテン王の統治時代を除く)。
古代エジプトの神殿は神の住居と考えられ、創世期の世界のミニチュアをかたどったものでした。神殿は、創造の中心と考えられていたのです。神殿のこの象徴的な役割は、壁や天井の装飾はもちろん、その位置やデザインによっても表されています。神殿で行われる毎日の儀式は、神の日常生活をドラマ化したものでした。一般大衆は毎日の宗教儀式には何の役割も持たず、事実、一般人が神殿の内部に入ることは厳しく禁止され、大きなお祭りのときだけ参加が認められました。
エジプト人は特に、死と埋葬に大きな関心をもっていました。しかし、エジプト人の来世への執着は、本質的には彼らの生への傾倒から生まれたものです。エジプト人は、死後も生前と同様に、王や貴族に最高のものが用意されている階層社会に属することを望んでいました。来世での人間の最高のあり方は、現世で生きていたときのそれぞれの社会的階級に提供される、最高で最も望ましい生活様式とされるもので作り上げられる、と信じられていました。望みの目的を遂げるために、死者は自分の名前がいつまでも存続すること、体が無傷のままで残ること、墓に必要な食料や飲料を確保することが必要でした。これが、腐敗しないミイラが埋葬され、墓の主の名前を入れた文字と、墓の主に食料、飲料、その他の望みの品物を確実に提供する魔力をもつ背景画が描かれた、非常に精巧な墓の発展につながったのです。
美術
美術は非常に繁栄し、古代エジプト文化の形成に重要な役割を果たしました。古代エジプト人は、美術を自分の宗教信仰を目に見える形に変えるための手段と考えていました。そのため、あらゆる種類の美術が儀式的な目的をもっていました。墓や神殿の壁画は調査の結果、2つの基本的なタイプに分けられることがわかりました。宗教的なフォーマルな壁画には神々の世界や死後の世界が描かれ、その中心に描かれているのは神々や王、すなわち墓の主です。人物はすべて、理想化された完全な姿で表されています。男性はすべて若く、美男です。女性は、すらりとした美人です。一方、日常生活を描いた壁画の人物は完全とはほど遠く、時にはデフォルメされている場合もあります。フォーマルな人物像のポーズは制約されていますが、マイナーな人物像は非常に多様なポーズで表されています。
以前にも述べた、アクヘナテン王による新しい宗教の導入は、他とははっきりと区別できる美術様式を生み出しました。その最も明らかな特長の一つは、王が歪められた異様な姿で描かれていることです。この表現方法がアクヘナテン王の実際の姿を表したものなのか、その宗教的思想から生まれたアクヘナテン王の姿なのかは、今だに論議を要する問題として残っています。
ギリシャによるエジプトの統治(紀元前332年から紀元前30年)
動乱と外国からの侵入が何世紀も続いたあとのエジプトの混乱期の中で、アレキサンダー大王が独自の統治を確立し、エジプト政府を再組織し、新しい首都アレキサンドリアを創設し、ファラオの信仰を復興させました。
紀元前232年にアレキサンダー大王が死ぬと、その帝国はマケドニア軍の将軍の間で分割されました。プトレマイオス1世は自分の王朝(プトレマイオス王朝)を打ち立て、この王朝は3世紀にわたってエジプトを支配しました。プトレマイオス王朝のもとではギリシャ語がエジプトの公用語となり、ヘレニズム文化と思想が導入されてエジプト本来の神学、美術、建築、技術と融合されました。プトレマイオス王朝では、宗教的な建築物のうち、フィラエ、エドフ、コム・オムボ、およびエスナの神殿が、エジプトの神々をたたえるためにエジプト様式で建設されました。アレキサンドリアは大都市となり、人類史上最大の図書館の一つがありました。
プトレマイオス王朝の統治は、内部の権力闘争とローマの侵入によって次第に衰弱していきました。ローマ人はプトレマイオス朝エジプトに侵入し、様々な統治者や派閥を支援して、ジュリアス・シーザーの軍隊がアレキサンドリアを攻撃して、ついにはエジプト全土の支配を達成しました。最後のプトレマイオス王朝の統治者クレオパトラ8世は、最初はシーザー、後にはマーク・アントニウスの保護を受けてエジプトを統治しました。しかし、アクチウムの戦いでオクタヴィアヌスの艦隊がエジプト海軍を粉砕して、アントニウスとクレオパトラを自殺に追いやり、エジプトはローマ帝国の領土となりました。
ローマおよびビザンチンによる統治(紀元前30年からキリスト紀元638年)
オクタヴィアヌスはエジプトを治める最初のローマ人統治者となり、アウグストゥス皇帝としてエジプトを統治しました。エジプトはローマ帝国の穀倉となって、約30年間は安定した状態が続きました。ローマ人は先達のギリシャ人と同様に、多くのエジプトの信仰を自分たちの信仰と融合させ、デンダラ、エスナ、フィラエに神殿の建築と増設を行いました。引き続きギリシャの学問の中心であったアレキサンドリアでは、文化を支配していたのは依然としてヘレニズムでした。
エジプトの初期キリスト教
言い伝えによると、1世紀のローマ皇帝ネロの統治時代に、聖マルコがキリスト教をエジプトに伝えました。聖マルコはアレキサンドリアで福音を説き、アレキサンドリア布教区を建設しました。
エジプトでは初期のころ、キリスト教は古代から続く土着の宗教慣習との長い戦いを繰り広げていました。しかし、ローマ帝国全土で行われたキリスト教の改宗者に対するローマの迫害にもかかわらず、キリスト教はエジプト国内で急速に広がっていき、2世紀の中頃までには大部分のエジプト人がこの新しい信仰に改宗していました。
エジプトにおける初期キリスト教(エジプト・コプト教)の歴史には、次の2つのできごとが残されています。
美術
エジプトのコプト美術の大部分は、本質的には民衆の装飾美術に近いものです。壁、柱、支柱は絵画やフレスコ(宗教的な意味をもつ石や木の彫刻)で覆われています。コプト美術は、いわゆるファイユムの肖像画やサッカラやバーウィットのフレスコで明らかなように、リアリズムを非常に好んだ美術です。
カイロの"misr al-qadima"(旧エジプト)地区では、7つの主要な古いコプト教会と修道院が、コプト美術館と敷地を共有しています。これらの建物の建造は、紀元5世紀から8世紀にさかのぼります。アブ・サルガの最も古い教会は、聖家族がエジプトへの逃避後に隠れ家を求めた地下室の上に立てられています。さらに、この場所には"mualaqa"の吊り教会として知られる聖母マリア教会もあります。コプト美術館自体にも、コプト時代の珍しい財宝が収蔵されています。
イスラム時代のエジプト
キリスト紀元642年に、アラブがエジプトを完全に征服しました。アラブ人は、ギリシャのメルク教徒を排除し、コプト教徒が独自の総主教を選ぶのを許したため、コプト教徒に歓迎されました。イスラム時代の新しい首都フスタット(現在のカイロの一部)から、エジプトは868年までイスラムのカリフ朝の領土として統治されました。868年にエジプトはタルニッド朝(868年から935年)の設立によって一種の自治を獲得し、その後、イクシディ朝(935年から969年)がエジプトを独立国として統治し、それはファティミド朝まで続きました。
内部の権力闘争、飢饉、外圧などの結果、ファティミド帝国はサラ・アルディン・アル・アユビ"サラディン"の手で崩壊し、彼によってアユビ朝(1117年から1250年)が起こされ、カイロを取り囲む要塞とその周囲の居留地が建設され、これは最後には十字軍に対する守りを担う砦となりました。サラ・アルディンは、その輝かしい軍人および統治者としての精神と、十字軍に対する勝利のために、イスラムばかりでなくアラブ民族主義の最も偉大なヒーローの一人として崇められています。
オスマン・トルコによる支配は、エジプト(1516年から1798年)がイスタンブールから支配される大帝国の領土に再び戻ったことを意味しました。オスマン・トルコは素晴らしい軍事戦略家であり、豊かなイスラム文明を発展させましたが、植民地の統治は不得手でした。オスマン・トルコによる施政への直接の関与は、税の徴収以上に広がることは滅多になく、その税の徴収もマムルクに依存したものでした。この統治に対する関心の欠如が怠慢と国情の悪化にはっきりと現れ、1798年のフランスによるエジプトへの侵略を促したのです。
イスラムの芸術と文化
キリスト紀元7世紀の権力の拡大により、アラブ人は数千年も前にさかのぼる文明の後を継ぐことになりました。イスラムの芸術と文化は、他民族とのオープンな相互作用、土着文化の取り入れ、以前にあった文明の革新的な発展を絶えず続けたきた結果、生まれたものです。帝国は、オープンな国境と文明の融合を進めたことで、様々な文化遺産のるつぼとなったのです。
イスラムの出現と、拡大を続ける開放的なイスラム帝国にエジプトが統合されたことにより、エジプトはアラビア、レバント、北アフリカ、中央アフリカ、南ヨーロッパなどの様々な地域からの移住者と影響を受け入れることになりました。エジプトは、これら外国の影響をエジプト社会に取り入れ、それを一つの結合した独立体の一部にする能力があることを自らに明らかにしました。エジプトにおけるイスラム芸術と文化は、今日、多数の知的活動の生産品、貴重な建築モニュメント、色とりどりのガラス、しっくい細工のデザインや模様、木や石の幾何学的なデザインはもちろん、一連の伝統や習慣などに明らかにその姿を表しています。これはすべて、エジプトがイスラムの歴史を通して得た様々な影響の結果は言うに及ばず、これらの影響を吸収し、エジプトの自然条件や祖先のフォークロアの両方に適応させた驚くべきプロセスの結果、生まれたものです。
現代のエジプト
1798年7月にナポレオン・ボナパルトが、多数の西洋の学者や科学者("Description de I'Egypte"(エジプト紀行)として知られる広範囲にわたる完全なエジプトの調査を行った学者、ロゼッタ・ストーンの発見とそれに続く古代文字(象形文字)の解読で古代エジプトの研究に多大な貢献をした学者など)を引き連れてエジプトに到着したことは、多くの人にエジプトの歴史における新しい時代の始まりであると考えられています。これによって西洋の影響がもたらされ、浸透したことは、エジプトの発展を形作る最も重要な要因の一つとなりました。これはまた、エジプトを近代化に向かわせるにあたって重要な役割も果たしました。
フランス遠征隊が去ったあとに、オスマン・トルコ軍のアラビア人将校であったモハマド・アリがエジプト人民の支援を得て権力の座につきました。彼の統治は1805年から1849年にまで及び、エジプト現代史の中の波乱に満ちた時代であり、エジプトの近代化に向けた歩みにおいて重要な役割を果たしました。彼の一族によるエジプトの統治は、1952年まで続きました。
西洋の思想、手法、技術を取り入れることに明確に重点を置き、近代化を大幅に進めるプロセスを始めたのは、後継者の1人ケディブ・イスマイル(1863年)でした。彼は最初のエジプト国会を設立し、これはエジプトが民主主義への道に足を踏み入れた最初の一歩に数えられています。スエズ運河が完成したのは、彼の統治時代の1869年でした。
19世紀の終わりに向かうころ、正確には1882年8月12日、イギリスの軍隊がアレキサンドリアに上陸し、その後74年間続いたイギリスによる征服の始まりを歴史に印すことになりました。
20世紀の初頭には、国家主義の目覚めが見られました。二つの国家的目的、すなわち独立と憲法の改正を達成するために戦った主だった人々の中には、ムスタファ・カメル、サアド・ザグロウル、ムスタファ・エル・ナハや、その他大勢の人が含まれます。
1922年2月28日、イギリスはイギリスによる保護国としての統治の終了を一方的に宣言し、エジプトを独立国家としました。1923年に最初の憲法が発布され、サアド・ザグロウルがエジプトの最初の代議制政府を作りました。イギリス軍は引き続きスエズ運河地域にとどまり、イギリスの影響は依然として最も大きいものでした。
1948年のパレスチナ戦争の終結時にパレスチナの領土にイスラエル国家が建設されたあと、政治的、経済的、および社会的なフラストレーションがエジプト内部で高まりました。これが、この戦争において自国の政府に裏切られたと感じた若手将校の集団によるFree Officer Movement(将校解放運動?)の形成へとつながっていきました。
1952年7月23日、ガマル・アブド・エル・ナセルに率いられたFree Officer Movementは、イギリスの征服、政治体制、社会システムに対する無血の革命によって権力をつかみました。1953年6月、エジプトは共和国となることを宣言し、モハマド・ナジーブが初代大統領に任命されました。
1954年、ナセルは第2代大統領に就任し統治を開始しました。ナセルの大統領任期中に、広範囲な農業および工業の開発プロジェクトが実行されました。エジプト国民の大多数の利益のために、進歩的な経済および社会改革が実現されました。しかし、1967年に対イスラエル戦が再発したことに加え、国際的な政治および経済システムに起った変化により、エジプトの発達に新しい方向が指し示されることになりました。
1970年9月のナセル大統領の死により、アンワル・エル・サダトが大統領に就任しました。1973年10月6日、エジプト軍はスエズ運河を渡ってバー・レブ・ラインを急襲し、1967年にイスラエルに占領されたシナイの一部を奪還しました。イスラエルとの交戦状態を解決するため、サダト大統領は恒久的な平和を求めて1977年11月にイスラエルを訪問するという歴史に残るイニシアチブを世に披露しました。この出来事は、この地域の歴史に大きな影響を及ぼしました。エジプトとイスラエルの平和条約は、1979年3月に署名されました。サダト時代には、政治、社会、および経済の領域で様々な変化が見られました。"オープン・ドア政策"の実現で、国家経済において民間部門に与えられるシェアがより大きくなり、これはエジプトが経済と政治の自由化をめざした道をたどる最初のステップとなりました。経済と政治の自由化は、1981年にサダト大統領の後を継いだホズニー・ムバラク大統領の現在の統治の主要な特長となっているものです。(政治システムと経済のセクションもご覧ください。)